舞台上で役者のしゃべる日常的言葉は、ダイナミックな多義性において再生産されていくよりも、拡散的なナチュラリズムへの道筋を辿りながら風化されていく危険を絶えず孕んでいる。
だからこそ、近代の演劇が拡散と紙一重にある多義性を封殺することによって、つまり戯曲の文学的な全体性に寄りかかることで、芸術的抽象化に到達しようとしたり、そのテーマ性において演劇を教育の道具にしてきたのではなかったか。
ところでそうした方向は演劇の持つ本来的な成立の根拠を問い直す視点に立った時、あまりいいことではないと思われる。
ここは一つ、なんでもなくなってしまう危険におびえながら、そしてまた、日常的言葉から脱出することで自立しようとする「主体」的な個の恣意性に対抗しながら、拡散しがちな(あるいは拡散そのものとしてある)日常的言葉を創造的に回復する道を探っていくよりしょうがない。
手がかりはないわけではない。
とまれ、方法論は出尽くした。あるいは世阿弥の時代から、そうたいして違うことが言われてきたわけではない。あとは、そいつを個の状況の中でどう舞台に止揚していくかだけである。
行く先は遠い。恐らく失敗は許されるであろう。面白くなければ誰も観に来なくだけのことだ。
それに、我々の公演は今回で一回目に過ぎない。