ご挨拶にかえて、心境報告

 今回のアトリエ公演について、先日、笠岡の有線テレビに取材をしていただいた。
前衛とは?
演劇は芸能でなく芸術足りうるか?など、本質的なことを聞かれた。
僕の芝居は理解しがたいという人が多いので、先手を打って、チラシに「前衛」と冠したのが、逆に関心を持たれたようで、かなり長いインタビューになった。
 その後あらためて、何故芝居をしているのか?自分にとって芝居とは何か?などとヤクザなことを考えていたら、「生きる意味」についてまで遡って、そこで堂々巡りに陥った。
因果な性格だと思う。
どういう思考回路を経て、「生きる意味」にまでたどり着いたのか、今はもう思い出せない。
それでも、幾つかまだその時考えたことが記憶に残っているので、それを少し…
 インタビューでは、お調子者の性格が出て、あることないことしゃべった。
「演技というと、一般にはそれらしく取り繕う技術と思われているが、僕にとっては取り繕わない覚悟のことなんだ」とか、
「日常、人は自分を演じている。舞台は、そんな日常が嘘っぽいということを証明する場所にしたい」
「そしてそれには、大変な気力と決心が居る。腹を割ったり、腰を据えたりしないと、どこまで行っても取り繕う自分が居るので埒があかない。自分を捨てる覚悟が必要だ」
「自分がないと捨てることも出来ないが、自分があると思っていると、今度はなかなか自分が捨てられない」
「人形のような、物になる訓練をしていると、そのことがよく判る。自分を捨てることが出来た瞬間、物体に見える…そんなことを舞台でいちいち検証していく。」などと、偉そうにしゃべった。
 結局、日常の生活の中では、ゆるいリアリティしか感じられないことが、僕には不満なのだ。
子供の頃の「睨めっこ」のようにアリアリと、(ちょっと相手の口元が歪んだだけで、プッって吹き出したあの頃のようには)相手の存在が、手応えを持って感じられない。
3メートルも離れたところから、くすぐる真似をするだけで身をよじる僕の3歳になる甥っ子のようには、他人と無防備に繋がっては居ない。
大人になって、取り繕う技術に長けることで、アリアリとした現実から、はぐれている。
 そんなふうに感じてしまうのは、かつて僕が、芝居の現場で体験したことのある濃密な臨場感に、ずっとこだわって生きて来たからかもしれない。
劇場の客電が落ちると、暗闇の中からその場のあらゆるものの気配が、手応えを持って立ち現れてくる。世界と一体となったような不思議な充実感。
 充分に生きるって、突き詰めていくと、クッキリとした手応えのある現実を体験するってことなんじゃないか?

そんな思いで、明けても暮れても空気の手応えを感じたり、睨めっこをしたり、殺気を放ったり、腰を据えたり、物になったりの訓練を続けている。
それで少しは出来るようになったかというと、チョット心もとない。
いい線行ったぞ!と有頂天になった次の日には、もうすっかり何をやっていいか判らない、という具合。
大崎さんは、旗揚げ当初から、僕のこだわりに付き合ってくれている。
最近だいぶウンザリして来た様子なので、ここらで取り合えず、今までの成果を地元の人に見て貰うことにした。
役者は、公演することでまた頑張ろうという気になることもあるし、発見することもあるから。
それに、この公演で仲間に入れてくれという奇特な人も現れるかも知れないと、虫のいいことも考えている。


2002年9月
濱本達男