鏡に説諭

濱本達男

鏡という概念は実に多様な広がりを持っている。
しかもそれはまことに単純な「うつる」という現象に人が直面した時の印象、というか、体験の質に依っている。
例えば「鑑みる」というのは「手本に照らして考える」という意味だけれども、これは「鏡を見る」体験から来たものだから、この場合鏡には手本が映ったのだ。
逆に、鏡に映るのは虚像に過ぎないという印象から「まやかし」とか、「嘘」などのニュアンスも鏡という概念には付いて回る。
それから、男女のいやらしい絵のことを春画というが、これを鏡絵ともいうらしい。
面白い鏡との体験の仕方だ。性交というのは、なるほど自分に相手を、相手に自分を移すようにして互いの知覚までも共有しているもの。
神社のご神体にも鏡が使われているが、あの本殿の薄暗がりの中に鉛色に光っている金属の丸鏡ほど不気味なものはない。覗き込むと、まるで知らない他人が向こうから見返してくるような…
他にも色んな鏡に対する体験の仕方があるだろうが、つきるところ、これらは人間の自意識の問題でもあるだろう。
 今度の舞台は、僕なりのそういった鏡体験を念頭において、いくつか場面を創ってその何の脈絡もない鏡にちなんだ場面がそれぞれ乱反射し合あえばいいだろうということで、そのまま闇を背景に等間隔に置いてみた。
 江戸川乱歩の小説に、鏡の部屋にこもった男が気が狂って出て来たというのがあった。そのことにも思いを馳せたし、アリスや白雪姫からの教訓も適当に頂いた。でも、稽古の過程で一番気になったのは、ガマの油売りの口上だった。四六のガマが、鏡の箱の中で己の醜さにタラリタラリと油汗を流すというあの話、実際身につまされる。
というのは、劇場の構造自体が、意識を映す鏡でもあるからね。
 人は自ら進んでこの鏡の箱の中に入る。にもかかわらず、ガマ程には自分が自分とじっくり対面出来ないことに驚き慌てる。
その時に流す冷や汗やヨダレ、唾や涙は、果たして薬になるか、ならぬか
…難しいところだ。