「私たちは、今、私たちが私たちであり得る方法を、私たちが私たちでない現実社会の中で妄想する時に、詩的な喩えの全価値にたどりつく」
と吉本隆明がいうとき、その妄想に一つの貌を取り付けて見たく思うのは、ごくまっとうな演劇する者の衝動のように思われます。
今回「詩劇」と副題を付けましたのは、そういった、詩を非論理的な気違いのたわごとと見る事も可能な、妄想を持たない人達の生活語の地平から、「詩」を「詩」たらしめている根拠と、演劇をたわいない約束事の上に行われる嘘ごとと見る日常の視点から、演劇を演劇たらしめているもう一つの価値との類似点の上に立ち、いってみれば「詩的体験のように演劇体験を」を合言葉に作業を推し進めた結果に他なりません。このアトリエのある6号館の一階トイレの壁に
みんな喉は渇いているのだ
よし!あてどない浮雲の
とろけるところでとろけよう
と落書きがありました。これを詩と感ずるか単なるたわごとと感ずるか?
その違いは、吉本流にいえば妄想を持つ人間か否かにかかっている。妄想を持つ人間というのは、私たちは私たちでないと現実社会で感じている人間のこと、ということになる。
役者という人種は勿論、私は私でないと日頃から感じており、私は私を取り戻したいと願っている。だから、トイレの落書きにさえ「詩」を感じ、それを「詩」として観客とともに体験したい。その為にはその言葉にどのようなアプローチがあるか?ここを出発点として作業を重ねて来ました。
私にとって演劇を演劇たらしめている価値とは、そのようなトイレの落書きが、ひとたび役者の身体を通した時には、詩的イメージや情緒を現出させる。そのことに他なりません。
願わくば、今日の舞台に演劇と詩の神様の降臨されんことを!