御挨拶

 劇団春秋座は、独自の舞台表現をめざして九十六年に結成されました。
 独自というのは、どこにもない、誰も体験したことのない独特の舞台と言うことですから、こんなものは演劇ではないと批評されたり、こんな演劇もあったのかと感心されたりする様な舞台表現を創りたいということになります。最初からそんなものをめざすなんて大変な野心と取られるかも知れません。
 しかしホントのところは、単に私の演技に対するこだわりがマニアックなので、そこを突き詰めると演劇という概念からはみ出してしまうのではないかと予感して、予防線を先に張って置いたというところでしょうか。
 では私の、マニアックなこだわりが何かと言えば、これはもう舞台をみて想像して貰うより仕方がありませんが、一応、役者たちに渡したテクストに書いた上演意図の部分を、作品解説として添えさせて頂きます。

劇団春秋座 濱本達男

パフォーマンス作品解説

【勝負】

 人間には(人間に限らないが)、一見何もしていない様に見えて、実は一生懸命何かをやっている時がある。
 例えば、ケンカで向き合って居る時などはそうである。いきなり殴ってやろうと身構えて居る。そんな時は、傍から見ると姿勢はじっと向き合って居るだけの様に見えて、実は当事者は熱狂的に何かをやりあって居る。
 カルタ取りのゲームもそうだ、参加者はじっと俯いて並べてあるカルタを見据えて居る。そして次の瞬間カルタを叩き飛ばす。
 その、何か突然に行動に移るための身構えには、犯すべからざるレッキとした存在の手応えがある。固く強ばるでもなく、だらし無く力が抜けている訳でもない。透明で近寄り難い、しかもニュートラルな風通しのよさがある。
 一言でいえば「素敵」なのである。演劇的と言ってもいいかもしれない。
 そこでそのような身体的状況は、舞台を支える基本的な居方と通じるものがあるのではないか、という事を確かめてみようと言うのが、このパフォーマンスの目論みである。だから当然、このパフォーマンスをマスターして遊べる(楽しめる)人は、私の演劇観では、「役者」足り得る。
 周囲の全ての状況に神経を研ぎ澄まし、肩の力を抜いて毅然として居る。そんな身体的実感を「勝負」と見立てて一応パフォーマンスのタイトルとしたが、これは我が劇団の「役者養成のための訓練」でもあります。

【お日さまの】

 この一景は、精神を病んだ患者たちが、社会復帰のための訓練として宮沢賢治の詩を朗読する、そういう設定になっています。
 自己破綻を来した患者たち(それは現代を生きる我々自身に他なりませんが)、彼らの精神に宮沢賢治の詩は、どういう作用を及ぼすのか?
 十分足らずの狂騒的な時間ですが、その後に訪れるカラッポの心身は、私たちにとってどんな意味を持っているのでしょうか?

【身体にきく…祈り】
 身体にきくの「きく」は、「訊く」「聴く」でもあるし「効く」と言う意味でもあります。また「占う」と言う意味をも含んでいます。
 だから、「身体にきく」と言うのは、役者が深く内省し、身体に問いかけ、そうして身体からの返答を聴く。その行為を言っているつもりなのです。
そして、そういった作業は、ちょうどアクビが側で見ている人に移るように、或いは梅干しをしゃぶっている人を見ると自分も唾が出て来る時のように、身体の実感が見物に移って、それは結構「効く」んじゃあないだろうか?と言う大胆不遜な思惑があるわけなのです。
 勿論何を移したいかが問題ですが、今回は「祈り」という、神への問いかけ、すがるような思い、そのような人間だけの特質であるところの「祈る」という行為の身体的実感を、石原吉郎や宮澤賢治、ベケットの言葉を語ることで体験しようという試みになりました。
 ですからこのパフォーマンスは、演劇と言うよりも「音声を発する舞踏」、或いは「祈り」と言う行為の内容からすれば、「神楽,巫女の舞」の現代版と言った方が分かり易いかも知れません。
 ともかく、現場に一瞬でも祈りが成立し神が降臨されんことを願うばかりです。

【オーゼの死】

 グリーク作曲の組曲「ペールギュント」に触発されて、葬式の弔辞の場面を創りました。
 三分間のデモンストレーションとして、本日午後四時からの元町トライアングル広場特設ステージで上演致します。
 人が死ぬということ、自分も必ず死ぬということ、むしろそこになだれ込むように「生」があるということ。
 葬式とは、だから、人の死を悼むのではなく、自分の死として体験するということ。
そういう思いで創りました。騙る言葉のほとんどは、ベケット作「ワット」 から引用しています。


役者紹介
劇団 春秋座   八尾せつ子
         大崎美穂
演劇ユニット遊'S 藤井啓永
         横山仁美
         赤木秀樹
         石井佳美