春秋座 演劇講座  其の一

役者の作業

 例えば、劇場内で柱時計がコチコチと時を刻んでいる。しかし、場内は開演前で、雑然として誰もそのことに気付かない。気にしない。やがて客電が落ちて、舞台に役者が登場する。場内は静かになり、観客は固唾を飲んで役者を見つめる。
 その時、役者が場内の静けさに耳を澄ますという行為に集中すると、観客と役者の間に、つまり場内に、忽然と時計のコチコチと時を刻む音が響きわたる。
 これは欠伸がそれを見ている人に移るように、役者の場内の静けさに耳を澄ますという行為が、観客の感覚に移って一緒になって耳を澄ます。すると、たまたま先程からコチコチと時を刻んでいた時計の音が、両者の間に同時に新鮮な発見として共有される、ということが起こるのです。
 肝要なことは、その瞬間、つまり時計の音を事件のような新鮮さで両者が体験するその瞬間、演劇的感動とでも名付ける他ないワクワク、ドキドキするような感動を、役者も観客も一緒に体験し、そのことを互いに了解し合っているということです。
 同時性を生きている、あるいは現実の存在の手ごたえを「今、すぐここ」というふうに、ありありと感じ合っている。といってもいいかも知れません。
 このような体験を私は、「出合い」と言っています。観客と役者は赤の他人ですが、でもそれは深い「出合い」です。
 私たちは日常、このような同時性の、言語以前の連帯感を生きてはいないのです。
 互いに互いを言葉で理解したと思い込み、安心し、そして誤解し、すれ違う中で疎外感に襲われ、孤立を恐れているのでしょう。
 ですから、時計の時を刻む音がワクワクドキドキするような演劇的感動を伴って場内で共有されるという事は、これはもう立派に劇的な事態、劇が成立しているといえるでしょう。表現とは何も目新しい意匠の事ではありません。
 もう一つ例を上げましょう。「生花」という日本独自の表現の様式がありますね、その極意は、その名の通り「花を生かす」という事にあります。
 日陰に咲くドクダミの花も上手に活けてやれば、それは美しい姿をしています。地面に生えている花を切るという事は、殺すという事になりましょうが、いったん殺すのだけれど創造的な精神と熟練された手法でもってそれを活ける。すると忽然と今まで見た事もないドクダミが出現する。そのような意図で生花の世界では、花を切りとり再生させる事を「生かす」あるいは「活ける」と呼んでいるのです。
そういう意味では生け花に新種の珍しい花は本来必要ないのです。
 日常我々は、ドクダミという言葉を使ってその植物を理解して、知っているつもりになっている。色あせた、浅い付き合い方です。
 芸術と呼ばれている表現の作用は、この日常の惰性を破壊し、新鮮な生き生きとした現実(リアリティ)を再生するという事に尽きると云えるでしょう。
 ドクダミの活けてある姿に感動する事は、ドクダミそのものに感動する事でもありますが、もう一つ、それを生かした人間の創造的な精神、ドクダミの美を発見した精神に感化されて、一緒に感動しているという事でもあります。
 活けた人の発見の喜びがドクダミの美を支えている、と云ってもいいでしょう。そして、そう云った表現の作用は生け花という様式(型)の中でこそ成就されるものなのです。これは劇の成立の構造とよく似ています。
 まず、花器という入れ物(劇場)の雰囲気があり、活け方に天・人・地・のような作法があるように、舞台では振り付けや物言いの制約がある。そしてその約束ごとに従って活けられる(演じられる)時、花本来の美、生命の輝きというものを我々に感じさせてくれるように、役者はその存在感に於いて観客と劇的に出合う。
 ここで役者は、オブジェとしての花そのものであると同時に、それを活ける師匠でもあります。演出家は、生け花の作法を考案した初代宗家という立場になるわけです。
 ですから役者が舞台でやる作業といえば、まずいつもの日常的な自分を一旦殺す、殺す道具はハサミではなく、無邪気な澄んだ狂気です。すると忽然としてありありとした手ごたえを持って立ち現れてくる世界があるのです。日常の生活が如何にリアリティが無いかという内省の念と一緒に。
 ひとたび、この様な事物の本質を見る見方を体験すると、それにこだわる生き方以外、面白くなくなってしまいます。
 ありありと実態のあるものとしての現実の手ごたえ、それを楽しむ。それは日常の世界感との落差、ズレを遊ぶという事に他なりません。その遊びのバリエーションに、「自分の肉体を素材として捉え、その中に美を発見する。」という遊びや、「日常の使い古された言葉を、イメージの喚起力のある詩的言語として再生させる。」という遊びや、最初の例で言った時計の音のような「何気ない現象を面白く感じる」遊びがあるわけです。
 私、ここまで思いつくままに大した推敲もせずお話してきましたが、ご理解頂けましたか?
 皆さんがひとまず言葉では理解出来たとして、さて皆さんは芸術家たり得るかしら?「いつもの日常的な自分を一旦殺して、無邪気な澄んだ狂気でもって現実を発見する、そして日常とのズレを遊ぶ」ここのところは実践してみる他、理解しようがない。芸術家を芸術家たらしめているのは、生け花であろうと役者であろうと画家、詩人、音楽家であろうと実はこの一点にかかっているのです。
 最近お亡くなりになった岡本太郎氏の眼を剥いてびっくりしたときの身体の構えは、実践する芸術家の典型です。「創造的な感性は、身体の構えに依存している」という事についてはまた次の機会にお話ししましょう。
 ここでは岡本太郎氏のあのポーズ(眼だけでなく指先まで)を、そっくり真似てご覧なさい、十分間もそうしていれば日常の霧が晴れ、アリアリとした現実が見えてくるかも知れません。と、アドバイスするに止めておきます。

1996年1月

濱本達男