ブームについて

 近頃、演劇は不振ではないだろうか? 少なくとも、自分たちの現場に於いては正直なところ感動を手に入れることがむつかしくなった。むつかしくなったという言い方は正確ではないかも知れない。容易であった時があったわけではないのだから。むしろ、そのむつかしさがわかって来たので振るわなくなって来た、といった方が近いだろう。
 この思いは単に僕個人の、あるいは僕等の現場だけの事情に過ぎないのかも知れない、というのは、この原稿が「今の演劇ブームについて」意見を求められたことに端を発しているからである。僕等が不振をかこっている時に、巷間ではブームが云々されているという訳だ。
 もっとも誰がブームを口に出し、誰がそのブームを自認しているのか、あやしいものである。もちろん、断わるまでもなく、僕の知らない所で感動的な舞台がいくらもあるに違いない。ただ、そういう活気ある集団が自らブームを口にしているとは思えないだけである。そういうわけで、僕にはどうも、今流行しているのは「演劇の不振にるいて確認し合うことぐらいではないかという気がする。
 少なくとも、ブームが舞台の質に於て語られる以外ないというあたり前のことが、なおざりにされているような印象をうけるのである。最近、細々と活動している僕等のような小集団にも、シンポジウムへの誘いだとか、公演の案内とともに現場での発言を集めた小冊子が舞い込んだりするけれどもそういった刊行物を作成するという活動の中にも、その内容の中にも、舞台の感動を抱えた人たちの“勢い”とは異質の衝動を感じてしまう。だから、その場に親近感を感じつつも出かけて行くのをためらうのは、何かしらそこに、仲間として互いの貧しさを慰め合う羽目に陥るような気がするせいなのかも知れない。
 今、舞台は、さまざまな作為的意匠や野心的な独創、軽妙なテンポ、ナイーブな心情で、一見にぎやかであり、そのことを指して演劇の活況と見なす視座もあるのかも知れないが、そういう現象こそ不振の確認をし合うことから出発した事態と言えるのではないだろうか。どうも僕には、そういった個別な感受性の濫用は、本来の舞台の感動とは無縁のような気がする。
 “演劇が演劇として存在するそのぎりぎりの場所を目指す”とは誰かが言った言葉だが、おそらく今問題にしていいのは、そのことだけである。
 つまるところ、ブームも不振も演劇そのものと直接関係ないと僕は思いたいのである。考えてみれば、舞台に何を見つけるのか、何をもとめるのかということが自明であったのは、遠い昔の、また到るところに神が降臨してきていた頃のことで、僕等に於ては、いつだってそれぞれの思い込みを引っさげて舞台に乗り込んだにすぎないのであった。
 だけども、舞台の板は、その昔のままに厳として観る者の前にセリ出して、同じにあって、我々もまた、その昔から少しも違わない血肉を受け継いでここに居る。境遇が多少ズレたところで、確かな気を持って舞台に臨めば、そのことを感じるし、今も昔も同じことが舞台に起こらぬはずはない。
 昔、舞台に何が見えたのだろうか? そのことに思いを巡らすことは、今の僕の舞台に関わる時の唯一の指針になっていると言ったら、神秘主ギと一蹴されるであろうか。だがあれ程センセーショナルで“演劇理念の根底にかかわる新しい決定”として登場した前衛劇さえ、たった10年の間に、数ある舞台形式の一つに過ぎなくなったことを思えば、たとえ、やみくもな信仰心による幻想にすがって、何もかも見えない存在のセイにしてしまう神秘主義者と誤解されようと、“神通力”や“気合い”を引き合いに出して舞台を見据えることぐらいしか、あきずに持続出来そうな面白いことはもはやないと思える。ひとたびそのことに思いを馳せると、演劇は個性的な“思いつき”や“ひらめき”などが入り込める余地はほとんどない、もっと単純直裁な貌をして表れてくる。
 たとえば、極端なことを言ってしまえば、一人の役者が舞台にたたずんで居て、そこに立ち会っているだけで知らず知らずのうちに、健やかになっていると言うようなことだってある得るような気がしてくる。(逆にいえば、そういうことが可能な、“たたずむ”と簡単に言っている態度の中に、全ての演劇的な困難があると言いたいわけで、“たたずむ”形態を素敵に見せる舞台処理を問題にしているわけでは、もちろんない。)
 そして、そういう“存在の力”“たたずむという表現の力”は、そこに立ち会う者と役者との間で意識を素通りして、直接身体に伝播し合うから、意識がその体験を取り返したところで、次のように決着をつけるしかないのかも知れない。

    「美は人を沈黙させる。優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬ或るものを表現していて、これに対しては学問上の言葉も実生活上の言葉も為す処を知らず、僕等は止むなく口を噤むのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語ろうとする衝動抑え難く、しかも、口を開けば嘘になる。そういう沈黙を創り出すには大手腕を要し、そういう沈黙に堪えるには作品に対する痛切な愛情を必要とする。
     美というものは、現実にある一つの抗しがたい力であって、妙な言い方をする様だが、普通一般に考えられているよりも実は遙かに美しくもなく愉快でもないのである。」

 ここで言われている芸術作品が演劇であって悪いはずはないし、“演劇が演劇として存在する、そのぎりぎりの場所”に役者が居ないなずはないだろうから、つまりは、役者が舞台に一人でも居て、僕等を沈黙させるほどの言うに言われぬ或るものを表現する、といったようなことを夢見ても、あながち無縁とばかりは言えないだろう。僕には小林秀雄のいう美が、自分達の演劇行為と無縁であって欲しくないのである。
 そういうわけで、僕等は今さかんに現場で、入れかわり立ちかわり、たたずんでいるのだが、正直なところ不振である。不振であるという言い方は正確ではないかも知れない。ほとんど不毛といった方が近い。
 この不毛は、しかしながら、ブームと言う言葉が舞台の感動の質を問うことを忘れて、既成事実のように一人歩きを始めることを許したり、“たたずむ”という存在の仕方が、単なる舞台進行のコードや風景としてしか見られなくなった僕等の体験の仕方に由来しているのであるから、安易に引き下がるわけにはいかないのである。

1983年11月「現代劇」

濱本達男