春秋座について

春秋座は、「バッコスの信女」(1978年1月~2月 岩波ホール公演)を最後に早稲田小劇場を退団した濱本達男が、自分のこだわりを実践するために、早稲田小劇場の研究生であった、鈴木栄子、日吉賀奈也、管野祐子や、転形劇場出身の大平千晶らを説得して、1978年暮に結成し翌年春に旗揚げされました。

以来、一貫して「演劇とは何か?」を問う作業を続けて来たように思います。

というのも、自分(濱本)はこれまで何度も人間の本性のようなものを舞台で目の当たりにして感動したからです。
それは芝居のストーリーとか、テーマとか、心理的な葛藤とかに感動したのではなく、ストーリーとかテーマとか登場人物の心理とかに対応する役者の存在の在り様に対してでした。
人前にわざわざ己をさらす行為。
(自意識の肥大が極限に達した時の自意識からの離脱)
あらかじめ用意されたセリフや段取り(作為)を、毎回新しい体験として(一回性)として、観客の前で遊ぶ行為。
(羽目を外す)
こういったの役者の内的な体験が、僕を感動させる要因になっているように思います。

僕はこの感動のことを「演劇の神様が降りてきた」と言っています。

自意識から解き放たれ羽目の外れた役者が、舞台上であらかじめ決められた段取りと言葉を発することをやると、観客と役者との間に何事かが起こるのです。それは写真やビデオでは記録されない極リアル(シュールでなくスーパーリアル)な事件です。

特別美味しくお抹茶を頂くためには(極リアルにお茶と出遭う為には)、掌の上で三回茶碗を回したり、他にも色々手続きが必要なように演劇も観る者とやる者との構えが定まれば演劇の神様が降臨する、そのことを実践したいということだけが、春秋座の目論見なのです。

そしてそれは、多分難しい…。

このホームページをUPしたのは、20年以上前からの春秋座座員である I 君が、パソコンの仕事をしていて、資料さえ送れば作りますといってくれるからだけど(…もう何年も前から)、資料を整理しているうちにこのホームページが、極少人数に当てた春秋座のメモリアルスペースであってもいいのではないか?と思い始めました。
それは、現在自分が修業僧のような内向的な活動しか出来ない境遇にあること(付き合ってくれる役者が居ない)。
もう一つは、 I 君のみならず初期からの同志が、未だに春秋座での体験を心に秘めて人生の指針としているように思えるから。
深く関りあった同志や、熱狂的に支持してくれた当時の観客の皆さんが(少ない)、人生に迷ったりつまずいたりした時に、フト立ち戻る原風景であればこの極私的メモリアルスペースとしてのHPが存在することも許されるのではないか?
今は、そんな気持ちで資料を整理しています。
勿論、いつの日か春秋座の小屋を作り、そこを必要とする人間が尋ねてくれる。そんな現実が来ることを諦めてはいないのだけども…。

 

    • 濱本達男 プロフィール
1950年生まれ 広島県福山市出身
1973〜78年、鈴木忠志主宰の早稲田小劇場(現在SCOTと改名)に所属。
「トロイアの女」(岩波ホール、ヨーロッパ巡演)、「鏡と甘藍」(早稲田小劇場アトリエ)
「バッコスの信女」(岩波ホール)、
「宴の夜 I」・「宴の夜 II」(利賀山房)等に出演。
在籍中、劇団の若手を集め濱本興業と名乗り「坂下館覚書顛末」を構成・演出。
1978年、早稲田小劇場時代の研究生たちと劇団「濱本興業」を旗揚げ。
その後劇団名を「劇団 春秋座」と改め、早稲田大学6号館アトリエ公演を経て池袋に春秋座劇場を開設。演劇とは何かを検証する試みとして「冬の空」「鏡の部屋」「境内」「演劇療法」など、実験的な舞台を発表。
1985年、池袋を撤退。
1988年、福山市に移住。鍼灸治療院を開業。
1995年、福山市で再び「劇団 春秋座」を結成。アトリエ開設
「パフォーマンス 祈り」を構成・演出。(東京、BeSeTo演劇祭'98)(利賀村、新緑フェスティバル'99)に自主参加。
2003年、福山のアトリエ撤退
2006年、某公民館を借りて身体表現について検証中